広島に原爆が投下されてから、8月6日で60年経ったわけですが、60年という月日は日本人にとっては大きく、私も含め多くの方々が戦争未経験者になったているのは事実です。
高校野球の開会式で「参加する全校が原爆投下された8時15分に黙祷を捧げよう」と広島代表校が提案したものの、高野連の田名部和裕参事が「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と制したそうですね。
結構なニュースになっています。
考えてみると難しい問題ですね。私としては、1分間の黙祷はあっても全然かまわないと考えます。原爆の被災経験はたしかに広島と長崎なんですが、これは逆に世界的な問題でもあるわけです。
そう、原爆を実際に他国の国土国民の上に落とした唯一の米国と、唯一の原爆経験国となった日本。この意味をどう捉えるかですよね。原子爆弾やそれ以上の爆弾の恐ろしさを最も知る2国なんですから。
60年経ったかどうかは関係ありません。戦後、様々な理由で直接世界に働きかけができなかったこともあるでしょうが、現在日本はそれができるところにあるわけですから。
ただ、気になることもありますね。私のようなある程度の年齢者なら、身近に戦争経験者がいたこともあるでしょう。
その悲惨な話をきいたこともあるでしょうし、戦争で傷ついた兵士が白装束で、街角にいた頃を小さい子供の目でみていたこともあるでしょう。
しかしながら、いま高校野球を戦う年齢の彼らを含め多くの若い方々は、まったくそれを見聞きする機会がなかったのではと思います。どれくらい黙祷の真意を取れるか問題ですし、黙祷する経緯と前後をしっかり伝えることが必要な気もしますね。
そうじゃないと、単なる形式になるような気がします。
教科書問題もどうなんでしょうか。教科書がどのように記述してあっても、歴史の事実に関して話をできるのは現場の先生ということになります。要するに、受験の暗記事項として歴史を暗記するのか、それとも歴史の事実から様々な事象の結果の因果関係から起こる戦争と、当事国の者として捉えられるかどうかは、本人の知りたいもありますが、伝える先生次第かもしれません。
何年になにが起こったではなく、どうしてそのようなことが起こる必然があったかを話せる人が必要だと思いますよ。そうじゃないと、今の時代インターネットでもなんでも情報だけはあふれていますから、真偽はともかく教師以外から幾らでも得ることだって出来ますから。
教科書そのものは、アジアの諸国の意見も参考にする必要があるのかもしれませんが、教育そのものは最後には人だと考えますね。学習とは人に学び習うことですから。本来一人でする勉強ではありません。
ドイツの子供たちは小学生くらいになれば、過去の戦争がどのように問題だったかを論議して、2度とあってはならないというように、自分で考えられるように教育を受けていて、世界のどの場面でもドイツ人として恥ずかしくないように振舞うようにできるそうです。
実際に一度だけですが見たことがあります。テニスの選手ですが、ボリス・ベッカー選手の優勝のインタビューで、過去の戦争のことに触れドイツ人として恥ずかしくないような振る舞いをするのだということを話していたことに若い頃感動したことがあります。彼もまた戦争を知らない世代ですから。
ドイツ国旗を背負うことの意味なのだそうです。
同じように、戦争経験はなくとも日本の国旗をそのように背負うような考えは私にもなかったわけですから驚きました。(今はやっと日本人の一人で自信も持てるかもしれません。笑)
国旗を変える変えないではなくて、堂々と世界のどこかで日の丸を背負える日本人としてありたいと思えるかどうかが大事なのでしょう。旗や歌を変え戦争の様々を伝え忘れるようなら、いつまでたっても世界中から言われるわけです。多分。^^;
高校野球に話を戻しますが、高校球児の彼らの自発的な意見ならすばらしいことです。
(誰かの意見に従っただけなら悲しいですよね)
高野連の制止と、広島だけという発言の意が教育関係者としてどのような真意があったのか。
その2点でしょう。
ドイツに本部のある、世界平和村にいる傷ついた子供たちは、今現在でも起きている戦争の被害者です。
この子達のような子供が減るように貢献できる日本人ならいいですね。:)
うるるんウエア
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